廃墟そのもの

 04, 2016 05:00
 東日本大震災から5年がたった。
 発災当初の山形市内を中心としたさまざまな状況について、本ブログに記述した今までの内容を再録している。

 以下は、東日本大震災の発災から39日目に被災地を見た状況を記している。
 宮城県塩釜市、多賀城市、仙台新港の悲惨さが今も思い浮かぶ。
 地震と津波によってすさまじい破壊にさらされた。
 想像だにしなかったことだった。




♯地震発生から39日目=支柱を残すのみ
 
 April 18 2011 06:09
 平成23年(2011年)3月11日(金)14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)から39日目(4月18日、月曜日)。 また、大震災発生から39日目の新しい朝を迎えた。

根っこごとなぎ倒された木々

 昨日(4月17日、日曜日)の天気は最高。宮城県塩釜市の親戚に大震災以来初めて出かけることになった。
 今まで行くに行けなかった。遠慮していた。向こうでは、是非来てみてと言ってくれたので出かけた。なんか行くのに気が引けていたというのが正直な気持ちだった。
 親戚の家が被害を受けることはなかった。しかし、親戚の知り合いにも多くの人たちがたいへんな状況になっていることは聞いていた。

 塩釜へ向けて、山形中央インターから高速にのった。
 仙台東部道路の周囲は全く想像を絶する。ここらへんは、テレビでも空中撮影の画像で見ていた。高速道路を境にして、海側の方が津波にもろにやられている。
 松の木といった木々が、なぎ倒されて田んぼだった、いたるところに数え切れないほどある。
 どこから流されてきたのだろう。車も数え切れないほどあちこちに放置されまま。土埃をかぶって、田んぼの真ん中に、ひっくり返ったり、ひしゃげているものも多い。道路自体もなんだか波打っている感じだ。特に、橋のつなぎめに「がたっ」となった段差が目立った。道路の修理跡したところも多い。
 建物も窓ガラスがなくなっていたりするのが遠くに見える。
 ごみ、がれきの山が一面に広がっている。

 東部道路の海側の反対の方には、なぎ倒された木々はさすがにないが、津波がきただろうといった感じのがれきがところどころに残っている。
 海側を眺めると、ずっと遠くに松林らしきものがまばらに残っている。
 かつての伊達藩で400年前、防潮林として植樹してきたものが大津波で完璧に破られてしまった。なんとも、例えようのない光景が厳然とあった。

塩釜の親戚の状況
 
 塩釜の親戚まで行く途中にも、大きなスーパーの建物の壊れ方がひどい。ひしゃげた金属の棒状のものがいくつもぶら下がっている。営業はしてない。
 
 親戚の家は塩釜でも高台にあるので見た目にはどこも何ともない感じである。
 しかし、玄関口のブロック塀の一部が壊れかけている。また、地面とのつなぎ目は大きくずれて段差ができてしまっている。
 家の中でも、トイレの角角はひびが入って、明らかにずれている。また、居間の壁にも外からは目立たないが壁紙にしわができていて多分ひびだなという感じ。
 家の地震での影響調べが来たという。石川県から派遣された調査員だったという。

 また、趣味で創作している大ぶりの粘土人形は、強い揺れでもほとんど倒れず、ずれた程度でなんとかもちちこたえたとのこと。
 でも、リフォームして自慢のガラスケースの貴重なガラス器がいくつも割れてしまった。また、外国旅行のみやげとしてもらったオーデコロンが飛び出して、床に落ちてしまって床の色が変わった。歩くたびにべたべたと粘っこくて気持ち悪かったという。
 親戚の人は地震の時は、ただテレビをおさえているだけだった。がちゃんがちゃんとガラス器が割れる音が気がかりだった。
 地震の揺れがおさまって、自然に隣近所の人たちが外に出て集まっていた。
 それから、町中に警報のサイレンが鳴り渡った。
 「2メートルの津波が来ます。4メートルの津波が来ます。6メートルの津波が来ます。」次々と変わってきたというのだ。もともと高台にいるので、ここまで津波は来ることないと思った。

おじさんも家も津波でやられた
  
 そんな地震当時の話を聞いて、親戚の車で被災現場を見に出かけた。
 塩釜でも店舗の多い海辺の方は、まだまだ片付いてない。到るところにゴミ・がれき・放置されたままの車がある。信号機も止まっているものの方が多い。
 
 海岸の方に向かう。自衛隊員が交通整理に余念がない。
 家が傾き、窓ガラスもなくなっている。車がひしゃげている。船が沖に打ち上がってる。コンテナが海岸に何個も流れ着いている。仙台新港から流れてきたらしい。
 ちょっと高台に行くと、なんの被害のないところもある。天と地の差がある。
 
 隣町のおじさんのお宅にもよった。もともと誰も住んでいない家だった。妻に先立たれたおじさんは、神奈川県にいる娘のところにいる。本人は、難を逃れることができた。
 しかし、家はひどくやられていた。玄関の戸は完全にはずれ、ガラスが割れていた。家の中は泥だらけ。全然片付いていない。隣の人の話では、時々親戚の人が来ているみたいだという。周囲の家もみなこの津波の被害にあっている。
 道路脇には、ごみが積み上げられたままである。道路の半分を占領している。

支柱を残すのみ
 
 産業道路沿いのレストラン、車のディーラー、いろいろな店舗がめちゃくちゃな状況。まだまだ片付いていない。道路はなんとか走れるようにはなっている。流された車も路肩や、駐車場にごろごろと泥だらけで転がっている。
 
 仙台新港に行った。
 甥っ子の会社は、支柱や屋根が残っているのみ。ゴミが支柱にいっぱいひっかかっている。これほどの状況であれば、津波に追いかけられたというのもうなずける。
 大きなビール工場も近くにあって、ビールコンテナが路肩にごろごろしている。あらゆる工場がただ支柱を残しているだけで、ドロとごみの山で囲まれている。廃墟そのもの。
 
 1カ月以上経過している。それがまだこうしたまま。いつになったら、片付くのか。
 工場、店舗、一般の家、道路だってきれいにするまで、膨大な費用と、重機と、人の手と、日数をかけないとだめだろう。

 こんな光景を自分が目撃するとは思っても見なかった。
 きっと、65年前の日本の多くの町もこうなっていたに違いない。自然災害とはいえ、その再現だ。
 本当の出直しになった。   

 それでも、「明けない夜はない」。
 (ケー)




 被災した甥っ子は仙台を離れ、千葉で新しい仕事に就いた。
 家がめちゃくちゃになった叔父は、娘が住む神奈川で亡くなった。大震災から2年たってからである。
 被災者の人生は大きく変化した。
 もし、大震災がなかったらまた別な人生だったはずだ。 

 (ケー)
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