◆そうだったのか!上杉鷹山公

 02, 2014 14:33
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私は米沢市民ではありませんが、山形県人ではありますので
上杉鷹山という人は、財政再建という経済手法がクローズアップされており、
「なせば成る。なさねばならぬ何事も ならぬは人のなさぬなりけり」
という有名な言葉を残した人ということくらいは知っています。

さらに最近では、BS NHKなどでも鷹山公が取り上げられ、
今でいう育児手当や、老齢年金なども取り入れ、
経済の面だけではなく、社会的な弱者にも優しい福祉施策なども
活発に行っていたという事も知り、本当に素晴らしい方だったのだと知りました。

そして、ここにきてなぜ福祉施策にもそんなに力を入れたのかわかりました。
毎月、はとぽっぽ倶楽部から送っていただいている「はとぽっぽ通信」
毎号、さまざまな内容の記事で私も読むのを楽しみにしているのですが、
先月と今月は上杉鷹山公の事について書かれておりました。

私は、なんか最近テレビでも取り上げられているけど、はとぽっぽさんでも取り上げたのか。
と思っておりました。
そして今月号を読んでみると、私が全く知らなかった事実が書かれていました。
私も興味がわいてきて、少々調べてみることにしてみました。

ちょっと歴史に詳しい方なら知っていることなのでしょうが、
鷹山は宮崎県の高鍋藩から9歳のときに養子に迎えられています。
それは、米沢藩主の上杉重定には男の子がおらず、
娘の幸(よし)姫と将来結婚をすることが条件での養子だったそうです。

そしてその幸(よし)姫こそが、障がい者であったという事でした。
はとぽっぽ通信には、ダウン症、脳性まひとも言われていると書いてありましたが、
他の資料を見るとカリエスであったと書かれているものもありました。
いずれにしろ、そのようすは10歳にも満たない幼女同然の精神と体であったとの事です。

家臣は「側室をお持ちください」と言ったそうですが、鷹山は側室を持つことを断ったそうです。
幸(よし)姫は、自分に優しくしてくれる者は無批判・無条件に信じ、
人間の世の汚れというものを全く知らなかったそうで、
鷹山は「幸(よし)姫は天女だ。天女を裏切ってはならぬ」と
「生涯をこの姫のそばで送ろう」と決意したのだそうです。

江戸時代は「参勤交代制」がとられていて、大名の妻は常に江戸に住む事を義務づけられ
大名は1年ごとに江戸と本国で暮らすことになっていましたが、
大名の妻が障がい者であっても、その掟は変わることがなかったそうです。
ある意味、障がいがあろうが無かろうが平等な扱いだったということなのでしょうか。

そして、はとぽっぽ通信にも、私が調べたものにも書かれていたことがあります。
鷹山は、幸(よし)姫の笑顔を見るために、紙で鶴を折ることを覚え、
布で人形を縫うことも覚えたそうです。
幸(よし)姫はそれに応えるかのように、高価な調度品や玩具よりも
鷹山の手作りを好んだということです。

そしてある日、鷹山は人形を縫い、のっぺらぼうのままにしておくと、
翌日、幸(よし)姫が鷹山の手を引き見せた物は、眉や口、鼻が書かれた人形で、
幸(よし)姫は「よし、よし」と言い、これは自分だと主張したのだそうです。

この出来事は、現在の福祉で叫ばれている、その人が持っている能力・隠れている能力を
引き出すという事で、それを鷹山は意図的に行っていたというのです。
こうした妻に対する愛情・潔癖さ、孤高性も目を見張るものがあります。

また、幸(よし)姫は30歳で亡くなってしまうのですが、
その父親である重定は、形見として届けられた子ども同然の着物を見るまで
わが娘が障害者であることを知らなかったそうである。
現代社会では、自分の娘と会わないという事は考えられないことですが
隠居して米沢からでなかった重定は、江戸に「人質」のようにして生活している
わが娘と会うことがなかったという事で、時代背景がそうさせたのでしょうね。

おごり高ぶることをせず、深い人間愛で何事にも取り組んだ上杉鷹山
その姿勢に私たちは学ぶべきことがたくさんあるような気がします。

ちなみに、鷹山が側室を持ったのは幸(よし)姫が亡くなった後だったそうです。
なんてカッコいいんでしょう!!!(F)


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