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事務局前の公園に咲いていました。

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色とりどりの紫陽花です。

紫陽花をみると、やっぱり梅雨なのだなぁ~と思いますね。

さて、いよいよ明後日は、地域活性化事業のひとつになっていますが、
寒河江市の中央工業団地にあるA型事業所「マルシェ」さんと
同じく寒河江市平野にあるB型事業所「寒河江共労育成園」さんの
見学会になります。
働き方の違いや、就労先を決めるときのポイントなどを
勉強できるのではないかと思います。

ご参加のみなさまお気をつけておいでください。


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 戦前の義務教育において、知的障がい者は就学免除であった。
 教育の埒外にあった。
 森はな絵氏は以下のように、知的障がい者は社会から隔離された存在だったと述べる。
 森氏の引用は第6回目となる。



【引用はじめ】

知的障がい者との共生社会の実現
森 は な 絵
www.f.waseda.jp/k_okabe/semi-theses/11hanae_mori.pdf

1.2 戦前から戦後までの障がい者の歴史

 さらに、1900年に改定された「小学校令」では知的障がい者の就学免除がいわれ、それらに該当するものたちは学校教育から排除されていった。
 またその排除された人たちは浮浪者となったり、施設に収容されたりして次第に社会からも疎外されていったのである。
 このように、明治中期にスタートをきった日本の障がい者施設は、対象者を世間の偏見や差別から保護するためとして、結果的には一般社会から隔離されることとなった。

【引用おわり】



 戦前、富国強兵の時代にあっては知的障がい者を教育しようとする発想はなかった。
 足手まといとみなされた。
 家族からも、社会からも疎まれ、保護しようという人たちもごくまれだった。
 もちろん、公的な保護もなかった。
 慈善事業家がつくった障がい者施設で保護される人たちが少数いた。
 あとは野放しで差別と偏見の中で生きていくしかなかった。
 知的障がい者は本来ないものとみなされていた歴史は長い。
   
(ケー)

先日、山形県知的しょうがい者福祉大会の実行委員会が開かれました。
そして、その時に午後の部の大会式典の後に、地元の福祉事業所を
利用している本人さんたちの「ダンスサークル」の発表をやりたいとの話が出ました。

昨年は長井市在住のシンガーソングライターAKEMIさんのコンサートがありましたが、
今年は、プロではなく仲間たちが日ごろ行っているサークルの発表ということで
アットホームな大会になるようです。

そしてまた一つ、本人さんたちも楽しく参加できる催しが加わります。
こちらは、会場を飛び出しての体験教室です。

一夜干し体験
一夜干し体験への参加は限定25名!
参加人数に限りがありますので応募者が多数の場合は調整させていただきます。
            (基本、先着順です)


※こちらへの参加ですが、ダンスサークル発表と時間が重なります。
※一夜干し体験会場までは鶴岡市の福祉バスで移動できます。


本当はどちらにも参加できればいいのですが、
県内各地から福祉大会に集まってきております。
帰りの時間がどんどん遅くなってしまうと、地元に着く時間も遅くなりますし、
参加者の皆さんもとても疲れてしまいますのでどうぞご了承ください。

尚、イカの一夜干し体験は参加料金が別途必要になります。
当日、体験会場でお支払いいただくことになりますのでご注意ください。

イカの一夜干しが3枚で350円(特別料金にしていただいています)は安いですよね(*^_^*)
※一夜干しは、後日郵送になるそうですので、別途郵送料(着払い)もかかります。


福祉大会の参加申込書が出来上がりましたら
各市町村育成会支部にお送りいたしますのでどうぞよろしくお願いします。


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戦前の知的障がい者に対する施策は、公的なものはほとんどなかった。
 ごく少数の篤志家と言われる人たちが、慈善事業として行っていたにすぎない。
 以下、森はな絵の論考である。
 森氏の引用は第5回目となる。



【引用はじめ】

知的障がい者との共生社会の実現
森 は な 絵
www.f.waseda.jp/k_okabe/semi-theses/11hanae_mori.pdf

1.2 戦前から戦後までの障がい者の歴史

 知的障がい者に関する施策というのは、児童福祉法成立以降のことであり、それまではほとんど何もなかった。
 その理由として考えられるのは、当時知的障がい者を知的障がい者として認識する手段がなかったこと、または障がい者に目を向けられなかったことであ る。
 国や市町村からの補助がないなかで、彼らを支えていたのは民間の篤志家、宗教関係 者、社会事業者などであった。
 その中の1人として上げられるのは、キリスト者である石井亮一である。
 彼は、1891年立教女学校の附属として孤児を養育する東京救育院を設立したが、その直後の10月28日に濃尾地震が起こり、その被災孤児十数名を収容した。
 その後、孤児の中でもより悲惨な環境に置かれていた孤女の救済と職業教育を目的として 「弧女学院」を設立する。
 しかし、その子どもの中に通常の教育では困難な子がいることを認識し、それをきっかけに知的障がい者教育の研究に没頭し、1896年に「滝乃川学園」という日本で始めての障がい者施設を設立した。
 その後次々と障がい者施設が作られていったが、国からの補助は出ず全て民間からの寄付によって行われていた。
 また、施設に入れるのは一部の障がい者だけであり、後のものは犯罪者の手先に使われたり、精神病院に送り込まれたりした。

【引用おわり】



 知的障がい者教育は、「滝乃川学園」が始まりである。
 1891年というから明治24年である。
 明治の先駆者(石井亮一)が孤軍奮闘して行ったお蔭で今の特別支援教育がある。
 120年の歳月を要した。
   
(ケー)

森はな絵氏は、知的障がい者の定義は法的に存在しないと以下のように述べる。
 森氏の引用は第4回目となる。
 知的障がい者は、戦前から白痴と称するなど呼び名からして差別的な取り扱いだった。



【引用はじめ】

知的障がい者との共生社会の実現
森 は な 絵
www.f.waseda.jp/k_okabe/semi-theses/11hanae_mori.pdf

1.1 知的障がい者の定義

 まずは「知的障がい者」の定義について述べてみる。
 わが国では、身体障害者福祉法(1949 年)第4条で「身体障害者」の定義を掲げているのに対して、知的障害者福祉法(1960 年)には「知的障害者」の定義に関する条項はない。
 示されていたのは全て施設や事業の定義であり、知的障がい者の定義は法的には存在しないのである。
 専門家の中では各種定義が存在していたのだが、何をもって「知的障害」というのか、その判断基準において様々な論議がされた結果、長年法律として断が下されなかった。
 一般的に用いられているのは、 1990年に実施された知的障害児(者)基礎調査の定義で、「知的機能の障害が発達期(概 18歳まで)にあらわれ、日常生活に支障が生じているため、何らかの特別の援助を必要とする状態にある者」というものである。
 それより前の1953年に出された文部省(現 文部科学省)の「特殊児童判別基準」によれば、知的障がい者とは「種々の原因により精神発育が恒久的に遅滞し、このため知的能力が劣り、自己の身近の事がらの処理及び社会生活への適応が著しく困難なもの」と定義されている。
 また、障がいの程度によって「白痴・ 痴愚・魯鈍」などと呼ばれ、それらの言葉は戦後も長く用いられていた。
 「白痴」は「全く職業をなし得ない」重度障がい者、「痴愚」は「わずかに職業をなしうる半痴」、「魯鈍」は 「それより軽いもの」とされていた。
 白痴とはもともと漢語で「白癡」と書き、8世紀頃の文献には既にでており、「白」の「明確な」という意味と「癡」の「おろか」という意味 が組み合わさって出来たものと考えられる。
 この呼び名からもわかるように、障がい者は昔から愚か者・邪魔者などといった扱いを受けながら生きていた。

【引用おわり】



 知的障がい者をどう定義するか、専門家内でも判断基準をめぐって一定の合意を得るのが難しかった。
 知的障害者福祉法(1960)では、施設や事業との関連について間接的な定義になっている。
 知的障害児者基礎調査(1990)では、「日常生活に支障が生じているため特別の支援が必要とする状態にあるもの」という定義である。
 特殊児童判別基準(1953)では、「身近な事がらの処理及び社会生活への適応が困難なもの」という定義だ。
 戦前からの「白痴・痴愚・魯鈍」は、職業のできる状態からみて障がい程度を定義している。
 以上、知的障がい者の定義は、生活状態、社会との関係で見ているのである。
   
(ケー)

障がい者に対する森はな絵氏の考える課題について、その論文を以下に紹介している。
 その第3回目となる。
 戦後の混乱期を踏まえて、障がい者の人権問題をとらえようとする試みである。



【引用はじめ】

知的障がい者との共生社会の実現
森 は な 絵
www.f.waseda.jp/k_okabe/semi-theses/11hanae_mori.pdf

1. 障がい者福祉の歴史

昔に比べ現在は、障がい者も地域で住みやすい社会になってきているものの、今もなお 差別や偏見といった人権問題は未だにみられる。
 そういった知的障がい者に対する差別や偏見は、障がい者の歴史の名残ともいえるであろう。
 日本では第二次世界大戦で、軍人約 230万人、民間人約80万人、総計300万人以上の生命が奪われた。
 また戦後も食糧不足や貧困問題で日本の経済状況は混乱に陥った。
 そのような中で、障がい者の位置づけはどのようなものだったのだろうか。
 また、人権侵害や差別問題はどのような歴史のなかで作りあげられたのだろうか。
 この章では、障がい者差別や人権問題に焦点を当て、障が い者の歴史を杉本(2008)を参考に見ていこうと思う。

【引用おわり】



 障がい者に対する差別・偏見を解消するための法整備も始まっている。
 障害者差別解消法が成立し、平成28年度より施行される。
 ここまでの道のりは先人たちの努力と言っていい。
 法が整備されたから差別がなくなるわけでない。
 これが第一歩である。
 社会の本質的な変化を図っていかなければならない。
 育成会の運動も含めて、障がい当事者、その家族、その関係者が連携・協力して社会と共に歩む姿勢が必要である。
   
(ケー)

昨日は温海ふれあいセンターで山形県知的しょうがい者福祉大会の
第1回 実行委員会がありましたので、事務局全員で行ってきました。

鶴岡市温海となっていますが、もともとの鶴岡市からも結構遠いです。
鶴岡からあつみ温泉まで高速道路で向かったのですが、
トンネル率がそーとーなものでした。

ということで・・・・というわけでもないのですが、
帰りは7号線を通って鶴岡市内へ戻ってきたのですが、
やっぱり内陸にいる私は海をみるとテンションが高くなりますね!

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お天気も良かったので、運転してても気分がよかったです。
本当はもっと景色のいいところもあったのですが、
車を運転中は撮影できないので、ちょっとしたパーキングを見つけて撮影しました。


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私が子どものころは今のように高速道路などもありませんでしたし、
夏休みの一日、と~っても早起きして庄内浜に海水浴に来ていました。

山と山の間から青い海が見えてくると「ワァー!!海だ!」と
とても興奮したものでした。
とても高い位置に海が見えてくるのを見て、やっぱり地球は丸いんだな。
なんて、妙に納得した覚えがあります(*´▽`*)
懐かしい思い出です。

しっかし、私の車のナビはどうして来る時と、帰りは違う道を案内するのでしょう(´・ω・`)
さて、第2回目の実行委員会のときは、どこを案内してくれるのでしょうかねぇ。


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共生社会実現に向けた可能性について論じた森はな絵氏の論文を以下に紹介する。
 第2回目の紹介である。
 以下では、本論文の概要について述べている。
 歴史的な障がい者の位置づけを見ようとするものである。



【引用はじめ】

知的障がい者との共生社会の実現
森 は な 絵
www.f.waseda.jp/k_okabe/semi-theses/11hanae_mori.pdf

はじめに

 第1章では、共生社会について考える大前提としてまず始めに、障がい者は社会の中でどのように見られ扱われてきたかという歴史的背景について述べていく。
 戦時中の荒れた日本社会・経済の混乱の中で、障がい者はどのようにして生きていたのか、また戦前、戦中の障がい者の生活はどのようなものだったか見ていきたい。
 そして戦後、障がい者の権利を主張するために障がい者の親の会やそのほかの当事者団体は何を訴え、そしてそれらはどのように障がい者分野に影響を与えたか見ていこうと思う。
 第2章からは、ノーマラ イゼーション原理をとりあげ、それとともに変化していく障がい者観を見ていく。
 ノーマ ライゼーション原理は世の中にどのように影響を及ぼしたか、そしてそれらが今日の社会福祉にどのように関わっているのか世界の動きとともに考えていく。
 今日障がい者政策に おいて「ノーマライゼーションからインクルージョン」が叫ばれているが、その理由や目的は何かを第3章で明らかにしていこうと思う。
 第4章ではそれまで述べたことをふまえ、 障がいのある人とない人が共に生きていける社会の可能性についてみていく。
 健常者も障がい者も互いに尊重し合い支え合っていくために今必要なことは何か、そしてその先に共生社会は見えるのかを考えていこうと思う。

【引用おわり】



 障がい者観の変遷について、歴史的背景より明らかにしようとしている。
 戦前、戦中、戦後において障がい者の生活はどうであったか。
 障がい者団体の運動はどうだったか。
 ノーマライゼーションやインクルージョンの原理は障がい者観にどんな影響を及ぼしたか。
 共生社会の可能性はどのようなものか。
 以上について、本論文では取り上げられる。
   
(ケー)

まず、本日は知的しょうがい者福祉大会実行委員会のため
事務局は1日留守になります。
ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします。
御用の方はFAXまたはメールでご用件をお送りいただけるとありがたいです。


さて、6月11日(木)に山形市の総合福祉センターにおいて
第1回目の地域活性化事業の研修会がひらかれましたが、
来月(といっても来週になります)7月2日(木)には、
第2回目の事業として、事業所見学が行われます。

活性化H27



今回は寒河江市にあるA型事業所「マルシェ」さんと、B型事業所「寒河江共労育成園」さん
を見学させていただきます。
先日、マルシェさんに事前打ち合わせとして行ってきました。
利用者さんたちはもうほぼ帰られた後にお邪魔したのですが、
数人残っていた利用者さんたちは私を見かけると、
みなさんが「こんにちは!」と、元気な声で挨拶をしてくださるのがとても印象的でした。
こちらもつられて元気に挨拶を返していました(^^)/

当日はどんなふうに働いているのかを実際に見学させていただけるのでとても楽しみです!


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 共生社会に向けた取り組みがいろんな場で、いろんな機会に実施されている。
 その証拠に障がい者をごく普通に見かけるようになった。
 白杖を持った人が街を歩いている。点字ブロックがいたるところに設置されている。
 手話付きの会見が放送されることも多くなった。
 オリンピック・パラリンピックと同時に言ういい方も定着してきている。
 でも、本質的なところではまだ変わっていないと感じる。
 障がいに対する言われなき偏見・差別である。
 そうした問題をとりあげた論文を今後紹介していく。
 以下の論文である。



【引用はじめ】

知的障がい者との共生社会の実現
森 は な 絵
www.f.waseda.jp/k_okabe/semi-theses/11hanae_mori.pdf

はじめに

 現在、公共の場所では体の不自由な人に配慮したバリアフリーが主流となっている。
 これらにより、障がいを持った人でも昔に比べて外に出向きやすくなってきた。
 このように物理的な障がいは取り除かれてきているのに対し、心理的な障がい、すなわち社会においての障がい者に対する偏見や差別に関する問題はまだ課題として残されているのは事実である。
 私は大学1年生の夏に、知的障がい者施設にボランティアに行った。
 そこで障がいのある人達と触れ合うなかで、なぜ障がい者は遠い存在に思えるのかという疑問がわいてきた。
 これをきっかけに、障がいのある人とない人が共に生きていける社会、すなわち「共生社会」の実現にむけて必要な事は何か始めた。
 しかし、未来を語る場合は過去を語る必要がある。
 したがって、今回は過去に行われてきた取り組みや考えられた理念を取り上げながら、共生社会実現の可能性を探っていこうと思う。

【引用おわり】



 著者の素朴な疑問、なぜ「障がい者は遠い存在」なのか。
 共生社会が目指すのは、「障がいのある人もない人も、地域で普通に暮らす」ことである。
 「遠い存在」ということは、共生という状況にまだ問題があるという指摘だ。
 それについて、今までの取り組みの問題を探ろうというのが本論文の主旨である。
 これから本論文より共生社会のあり方について学んでいこう。
   
(ケー)

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