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以前にも一度お知らせしたしましたが
河北町手をつなぐ育成会主催の映画上映会が開かれます

ぼくはうみがみたくなりました

自閉症児・大輝(ヒロキ)君の父親である脚本家・山下久仁明が
「1人でも多くの人たちに自閉症のことを知って欲しい」
という想いから2002年に書き下ろした小説を映画化したものです


日時:12月17日(土)開場:PM6:00 上映PM6:30
会場:サハトべにばな 大ホール
入場無料(入場整理券が必要です)
入場整理券は、河北町教育委員会、サハトべにばな、どんがホール 
等で配布しています


この映画は、映画化を企画し、インターネットで映画製作費のカンパを呼び掛ける所からはじまりました。
そして、その矢先に原作者の山下久仁明さんは、中学を卒業したばかりの息子ヒロキ君を事故で亡くしています。
その3年後、映画は全国の賛同者からの寄付金により制作されました。

    


上映会も近づいてきました。
河北町育成会より、県育成会へ送っていただいてた入場整理券はすべて無くなりました。
映画の上映についてのお問合せは、
「ひだまりの家かほく」TEL:0237-72-7187
河北町育成会の林会長TEL:090-3126-0245までお願いいたします。

 平成23年(2011年)3月11日(金)14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)から273日目(12月8日、木曜日)。
 また、大震災発生から273日目の新しい朝を迎えた。

 第51回手をつなぐ育成会東北ブロック大会「第2分科会」(10月16日)において、名取市の施設が津波に襲われ大慌てで避難する様子が語られた。
    
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【引用始め】

第51回手をつなぐ育成会東北ブロック大会・(併催)第23回山形県知的しょうがい者福祉大会(平成23年10月15日〜16日、山形国際ホテル)
大会スローガン「東北はひとつ、みんなでの力で東日本大震災をのりこえよう」
第2分科会(10月16日) 【その1】 「災害と施設」(災害時における知的障がい者施設の役割)
話題提供

 あと10分遅かったら犠牲者が!

 【司会者】 ○それでは第2分科会、「災害と施設」「災害時における知的障がい者施設の役割」と題して始めます。お二方に発表頂きます。まず実際、津波の被害にあったことについて話題提供をお願い致します。

 【話題提供者】 ○皆さんおはようございます。宮城県から来ました。私の資料は今日のテキストに載っています。そちらの文章にそって、写真も準備してきましたので、それも見ながら説明いたします。
 私の社会福祉法人は仙台空港のすぐ近くにあります。仙台市の南隣に名取市という人口7万人の市があります。その中に唯一知的障がい者施設として通所更生施設、それから地域活動センター、相談支援事業所、日中一時支援事業所といった形の4事業所が入っていました。
 仙台空港からとても近いところです。震災の時には津波に全部のまれてしまいました。
 私は震災当時、施設の中で事務をしていました。その動きの部分とそっから避難所へ向かう部分と避難所の中でどういった活動をしたかを説明します。
 3月11日、午後2時46分地震発生しました。地震の時間はとっても長かったので防災無線が鳴るんじゃないのかと期待したんですけれども、防災無線が全然鳴らなかった。でも、これはまずいということで避難をした方がいいんじゃないかとなったんです。
 まず、その情報を得る為に防災無線が鳴らなかったことで、私が持っていたワンセグのテレビを付けた所10mの津波がやってくるという情報が入りました。
 実際に施設の位置からは大体1キロぐらいの所に海があったので、大丈夫だろうという気持ちがあった反面、ちょっと不安だったので、まずはもう逃げろという判断を即出しました。「乗れる車にもう乗れ」と指示をしていました。施設の職員が利用者さんに対してふだんのていねいな言葉遣いとはかけ離れた言い方になっていました。「逃げろ」と「並べろ」「乗れ」「名簿点呼」というふうに言ってたと思います。
 車両が足りないことに気づくんですけれども、結局はリフト車両とかそういった車両を全部並べて、重い障がいのある方からどんどん避難させたんです。結局、乗り切れなかったんです。第一避難所まで車で避難することにはしたんですけれども、そこに行くことが出来ない。普通車でいいから準備しろということで普通車で避難しました。
 当時、大津波警報が出て「自分達が避難をしよう」という決断をした時には、自分の施設から約10分ぐらいしか離れていなかった所は崩れ始めていた。自分達が移動しようと決断をした3時40分頃には10分先の周辺ではすごい状況になっていた。
 うちの施設は複合型の平屋建ての施設でとっても広い。
 当日は、金曜日だったので利用者の方が大体同じ場所にいらっしゃいました。
 通所更生施設の利用者さんは、お茶会を当日していました。
 地域活動支援センターの方々は帰る時間が近かった。地震で危険だということになった時にすぐに外に出ることが出来ました。みんなが集合していたこともあって、うちの方の施設からは当日の利用者は全員避難出来た。当日の利用者からは犠牲者が出なかった。運が良かった、全員が大体同じ場所にこの日のこの時間帯にいたので、集団で避難することが出来た。
 リフト車両を何台も並べて、即乗ってもらって、「もう逃げろ」ということでとにかく逃げました。車に集合かけて脱出するまでは10分くらいで全員出ることができた。
 その後、写真で見るとおり、津波が事務所の中に入ってきた。事務所の奥に乗用車が埋まるような形で1台入ってきて、車がぐしゃぐしゃになってしまいました。
 私達の施設は、海と本当に近い場所にあったんです。仙台空港の方は、3時50分、4時ぐらいの所でもう浸水してしまった。
 同じ時間帯に10分ぐらい離れた所で火災が発生した。閖上地区と言うところです。
 まず「避難しろ」ということで第1次避難集合場所をうちの法人で決めていて、そこに逃げることにしたんです。空港鉄道というのが走っています。そこの空港鉄道の駅前にみんなで集合しようと車約8台で、美田園駅の方に逃げました。一旦ここで全員の確認をしたんです。そこの場所が埋め立て地なので、液状化現象が心配されました。
 この時点でここも危険じゃないかということでもっと西に逃げました。結局、名取市役所のすぐ近くまで、ひたすら西に向かって逃げました。
 実際に、私達が選んだ第一次避難所も結局は浸水しました。ちょっと判断が誤ってればそこも逃げ道がないような状況だったのかなと思います。
 この写真が2日位経ってからの写真です。水が引かない状況としばらく入れない状況となってしまいました。
 結局は震災後、うちの地域は何にも無くなってしまった。
 それで何で避難ができて助かることが出来たかです。金曜日の時間帯にたまたまその利用者さんが同じ場所に集合していた。それから後は的確な判断です。第一次避難所までは選んだんです。そこが地元の職員の判断によってここは埋め立て地で、すぐに場所を変えた方がいいと判断したという点があげられます。そういったことで無事に避難が出来た。
 それから、避難したのが名取市役所の近くでした。そこは行政が見てくれている地域だったので、比較的早く備蓄品、避難物品がすぐに入ってきて利用者の方にバナナであったり、簡単な食事の提供があった。利用者の方も大きな混乱もなく、落ち着いて過ごすことができました。

【引用終わり】

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 瞬時の判断が生死をわける。運もある。いい運を呼び込むには的確な判断がなければならない。そうなってこそ、「明けない夜はない」となる。
 (ケー)

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