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 花田春兆(国際障害者年日本推進協議会副代表)氏による
 「日本の障害者の歴史―現代の視点から―」
  「リハビリテーション研究」1987年3月(第54号)2頁~8頁 (財)日本障害者リハビリテーション協会発行
 http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/rehab/r054/r054_002.html
 を22回にわたって引用してきた。

 次のような項目にわたる内容だった。

A 近代以前
 1.神話・民間伝説
 2.古代統一国家
 3.中世
 4.戦国時代
 5.江戸時代(近世)
B 近代以後
 1.明治・大正
 2.大正・昭和初期

 障がい者に関する苦難の歴史が語られた。
 どの時代にあっても差別と偏見の中で生きなければならなかった。
 検校などといって、ごく一部の障がい者が厚遇されたに過ぎない。
 多くは捨てられたり、物乞いで暮らしたり、見世物となったりと悲惨なものだった。
 そして、障がい者当事者だけでなく、家族も世間の目を気にせざるを得なかった。
 江戸時代、寺子屋において障がい者が指導を受けたという記録が残っている。ちょっと意外である。江戸庶民の中でも、障がい児教育の芽生えがあったのだ。
 ただ、明治の学制が始まってようやく公的な盲聾の教育が行われるようになった。
 戦時下において、障がい者は役立たないとして肩身の狭い状況に追いやられた。
 戦後、障がい当事者の中から障がい者の福祉向上に尽力された人たちが現れた。
 少しずつ、障がい者福祉に光が当たってきたのである。

(ケー)
 戦争末期、日本のあらゆる都市が空襲に見舞われた。
 そのため、都会の子供たちは農村部へ学童疎開した。
 もちろん、障がい児も例外でなかった。
 
 そのへんの事情について、花田春兆氏は以下のように述べる。
 花田春兆氏の引用は第22回目である。 



【引用はじめ】

花田春兆(国際障害者年日本推進協議会副代表)
日本の障害者の歴史―現代の視点から―

「リハビリテーション研究」1987年3月(第54号)2頁~8頁 (財)日本障害者リハビリテーション協会発行
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/rehab/r054/r054_002.html

A 近代以前

B 近代以後

2.大正・昭和初期

 空襲の激化によって、小学生は学校ごと都会から田舎へと避難させられていました。
 肢体不自由児の養護学校も同じでした。
 そしてそれについては、避難していた土地の軍の将校から、いざとなったらこれを飲ませるようにと大きな器に入った青酸カリが、校長に渡されていたという話が残っています。

 戦争が終わった時、ああ、これが生きのびる事が出来た、と思った人は多いでしょうが、障害者もそうした思いは同じだったのです。

【引用おわり】



 上記の引用にある「肢体不自由児の養護学校」は、東京の光明養護学校である。
 東京は毎晩のように空襲続きであった。
 そのため、養護学校も学童疎開しようとしたのだが、なかなか疎開先が見つからなかった。
 障がい児を受け入れようとする所がなかった。
 校長も必死で疎開先に奔走した。
 ようやく、長野のホテルが受け入れてくれた。
 疎開してから10日後、東京大空襲によって光明養護学校は全焼した。
 何かあった時には、子どもたちに青酸カリを飲ませるようにと軍人が校長に手渡していた。
 こうしたエピソードが残っている。

(ケー)
 戦時色の高まりによって、障がい者は役立たずとみなされた。
 厄介者扱いがますますひどくなっていった。
 
 そのへんの事情について、花田春兆氏は以下のように述べる。
 花田春兆氏の引用は第21回目である。 



【引用はじめ】

花田春兆(国際障害者年日本推進協議会副代表)
日本の障害者の歴史―現代の視点から―

「リハビリテーション研究」1987年3月(第54号)2頁~8頁 (財)日本障害者リハビリテーション協会発行
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/rehab/r054/r054_002.html

A 近代以前

B 近代以後

2.大正・昭和初期

 戦争は中国大陸から太平洋・東南アジアヘと拡大してしまいます。
 軍事色はさらに戦時色へと強められて銃をとれるかとれないかが、人間の価値をきめる基準となった世の中だったのです。
 障害者がどう見られ、どう扱われていたかはほぼご想像願えると思いますが、ご想像していただくよりも遙かにひどいものだったと思います。
 障害者なんか役に立たないから早く死んでしまえ、と行きずりの軍人から乱暴されて障害を一層ひどくさせられた人も、嘘ではなく現実にいたのです。

 中には若い男が戦場にかりだされて労働力が極端に不足したために、私のような障害者でも働くことが出来た、と言うような人もいることはいましたが、それもアメリカ空軍による本土爆撃が始まると、とてもそれどころではなくなるのでした。
 爆弾に追われ、戦闘機の機銃掃射に追われ焼夷弾の猛火に追われるようになると、頼れるのは自分の手足より他には何も無いことになってしまいます。
 そうした極限状態になると、人間も動物的能力だけが問題になる存在になってしまうのです。
 動物的能力だけの存在になる時、障害者がいかに無力な存在になるかは、特に言うまでもないでしょう。

【引用おわり】



 戦争末期には、知的障がい者にも召集令状がきた。
 兵役免除だった障がい者も戦場にかりだされた歴史がある。
 知的障がい者が兵隊の生活にうまく適応できたとは思えない。
 地獄の生活を強いられていたに違いない。

(ケー)
昭和初期にあって、盲人、ハンセン氏病者としてその道を切り拓いた人がいた。
 宮城道雄、岩橋武夫、北條民雄は、自己の境遇に抗して活躍した人たちである。
 
 そのへんの事情について、花田春兆氏は以下のように述べる。
 花田春兆氏の引用は第20回目である。 



【引用はじめ】

花田春兆(国際障害者年日本推進協議会副代表)
日本の障害者の歴史―現代の視点から―

「リハビリテーション研究」1987年3月(第54号)2頁~8頁 (財)日本障害者リハビリテーション協会発行
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/rehab/r054/r054_002.html

A 近代以前

B 近代以後

2.大正・昭和初期

 もちろん、そうした世の中の進み方に巻き込まれずに障害者の生き方を考えている人はいました。
 周りの人々にも、障害者自身の中にも、です。
 障害児も同じ児童なのだから教育を受けなければ可愛想ではないか、と肢体不自由児のための学校を作る運動が起こり、そんな子供に大事な国のお金を使うより、それだけのお金を他の普通の子供に使った方が効果的ではないか、という反対意見を押し切って、開校にこぎつけたのもその頃でした。

 障害者として問題となり、また目立った実績をあげていたのが、盲人とハンセン氏病者であったのは、この頃も同じでした。

 盲人の宮城道雄と岩橋武夫、ハンセン氏病の北條民雄は有名です。

 2人の盲人が死んだのは戦争が日本の敗戦によって終わってからのことですが、主な活躍期から見てここであげておきます。

 宮城道雄は琴の演奏家として、また作曲家としてあまりにも知られています。
 現在私たちが耳にする琴の曲は多くが彼の曲だと言ってもよいでしょう。伝統的な琴に新しい時代の生命を吹き込んだのです。

 岩橋武夫は自分ではキリスト教の神学者として多くの書物を著わす一方で、あんまだけに安住してしまって学問をかえりみない大部分の盲人たちにもどかしさを感じて、そんなことをしていたら人間が揉めなくなるぞと警告を発して、成人盲人たちのためにライトハウスという施設を設けて、点学による学問の普及に努めたのです。
 また、奇蹟の人であるヘレンケラーを前後3回にわたって日本に招き、障害者に希望を与えるとともに、一般の人々の障害者に対する考えを変えさせるのに役立ったのですが、その第1回目の折りは、日本と中国の戦争が決定的に本格化してしまった年、1937年でした。

 ハンセン氏病の北條民雄は、伝染予防のために療養所に収容されて、それまで生きて来た社会から完全に隔離されてしまう苦悩と悲しみを書いた小説が、高い評価を受けて社会的なセンセーションを捲き起こしたのです。
 また、ハンセン氏病の短歌作家としては、明石海人(あかしかいじん)などが注目されました。

【引用おわり】



 宮城道雄は8歳で失明。「春の海」で有名な琴の演奏家である。国際的に知れ渡った音楽家でもある。最後は夜行列車から転落して悲劇的な死(1956年)をとげた。この死についてブロガーもラジオニュースで聞いた記憶がある。

 岩橋武夫は大学在学中に網膜剥離のため失明。盲学校の教師となり、その後点字刊行を行うライトハウスを設立。日本盲人会連合会会長、日本盲人社会福祉施設協議会委員長などに就任。盲人の福祉向上に尽力した。

 北條民雄は、ハンセン氏病を発病後、全生園に収容された。そこでの体験を小説にし、川端康成に注目された。しかし、23歳の若さで結核のため亡くなった。2014年まで本名が公開されることがなかった。ハンセン氏病に対する偏見のためだった。 

(ケー)
大正・昭和にあって日本はまっしぐらに軍国主義化していった。
 国際情勢や国内情勢が影響している。
 当時、国内経済は不況期にあり、「国民皆兵」が国是であったため、障がい者を省みるものは少なかった。
 
 そのへんの事情について、花田春兆氏は以下のように述べる。
 花田春兆氏の引用は第19回目である。、 



【引用はじめ】

花田春兆(国際障害者年日本推進協議会副代表)
日本の障害者の歴史―現代の視点から―

「リハビリテーション研究」1987年3月(第54号)2頁~8頁 (財)日本障害者リハビリテーション協会発行
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/rehab/r054/r054_002.html

A 近代以前

B 近代以後

2.大正・昭和初期

 大正デモクラシーと呼ばれる短い時期を過ごすと、日本は急速に軍国化を進める軍の勢力に引きずられて行きます。
 富国強兵、つまりともかく国を経済的に富ませ強い軍隊を持つことが、先進国に追いつく一番の近道だとする政策は明治以来とられて来ていましたが、それが極端になってしまうのです。
 すべてに優先して軍備が進められて、その結果が泥沼の戦争へと突入して行きます。
 そうした中では障害者は、生産性を高めるという点からも十分ではないという見方をされていましたし、ましてや兵隊になることは出来ませんから、国のためには役に立たないのだという考えが次第に広まって行きました。
 多くの障害者にとって生きにくい世の中になって行くのです。

【引用おわり】



 障がい者は当時生産性に寄与しない足手まどいな者としてみなされていた。
 それこそ、社会からの差別と偏見にさらされ、ひっそりと暮らさざるを得なかった。
 障がい者の可能性に注目し、その力を引き出す試みはごく例外的であった。

(ケー)

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