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 東日本大震災から5年がたった。
 発災当初の山形市内を中心としたさまざまな状況について、本ブログに記述した今までの内容を再録している。

東日本大震災は、被災者も被災しない者も大きな影響を与えた。
 日本全体に対する影響である。
 テレビ画面で見る津波の映像は誰にも衝撃的だった。
 福島第一原子力発電所の建屋の爆発は、日本列島全体が恐怖におののいた。
 災害に対する取組はそれ以後大きく変わった。
 被災地を支援しようとする輪が大きく広がるようになった。
 ボランティアとして被災地支援が草の根運動として広がりを見せた。
 若者が率先して参加した。
 日本人の底力を感じる。
 以下、若い力に期待する記述である。



♯地震発生から43日目=災害を担うしようがい者
 April 22, 2011 08:09

 平成23年(2011年)3月11日(金)14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)から43日目(4月22日、金曜日)。 また、大震災発生から43日目の新しい朝を迎えた。

 4月仕事がたて込んできた。何かと忙しく、せわしい。3月に予定していた諸会議がすべて大震災の影響で流れた。
 山形市内まで移動するのにも、ガソリン不足がたたり、それどころでなかったし、会議なんてやっている心理的余裕もなかった。
 どっかに不安があり、ぽっかり空白ができた気分になったのはわたしだけではなかったはずだ。被災地や被災者だけでなく、日本全体にそうした気分がまん延した。
 こうした空気はそうそうあるものでない。ひょっとすると戦争直後の気分と近いのかもしれない。
 そうしたことを指摘する記事があった。次に引用する。
 
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【引用始め】msn.産経ニュース
 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110421/dst11042103130003-n1.htm
 特別記者・千野境子 「災後」を担え、若い力
2011.4.21 03:13
 「あの時」は、もはや民族共有の痛恨の経験として、末永く記憶されるに違いない。これに勝る時は昭和20年8月15日くらいかもしれない。そんな予感がする。

 3月11日午後2時46分。あなたは何をしていただろうか。私事を言えば、当欄の翌日組み原稿を校正して間もなくだった。経験したことのない揺れに、「ついに私も関東大震災を経験するのか」と思った。

 実は、その原稿は『関東大震災 女学生の記録』についてだったからである。横浜・山手のフェリス女学院に学ぶ、当時16歳から18歳の女生徒151人が仮校舎での国語の時間につづった震災体験の証言集で、創立150年を記念する校史編纂(へんさん)の一環で刊行されたものだった。

 好奇心も記憶力も旺盛な10代後半の少女たちの経験・目撃談は、体験者も少なくなった88年後の今日、貴重に思えた。10万人からの命を奪った火災の証言は実に生々しい。

 《物の焼け崩れる音、火のうなり声、何て物凄(すご)いのだろう。何日まで何処まで焼けるのであらふ》

 《逃げても逃げても後から火は逐(お)ひかけて来るのでした。…「万事休す」「横浜は全滅だ」など言ふ声が聞こえました》

 そしてもう一つ。にもかかわらず何人もの女生徒がいちはやく復興に目を向け、明日への希望や決意を記していたのが印象的だった。

 《総(すべ)てが灰燼(かいじん)の中から新しい生命をもって一日々々と復興してゆく町を見つめて居(い)るとき、忘れ得ぬ思ひ出はいつも涙をさそひます。そして生まれ出る力を祝福しつゝ頬笑ましい希望への胸は高鳴るのです》

 《多くの生命が此(こ)の世を去って行きました。と同時に多くの生命が生まれて来ました。廃墟(はいきょ)の都から新文化へと人々は努力して居ます》

 《古い一切のものを壊すのは結構だ。新しい美しい物を創造するの事を忘れてはならぬ。…記憶せよ、九月一日を永遠に!》

 目覚ましい回復力。前向きで貪欲な精神。若さの特権かもしれない。こんな正直な感想もあった。

 《稲妻の様に起(おこ)って過ぎた色々の事をけろりとわすれて、世の中に恐ろしい事などないといふやうな気持になった》

 実際、関東大震災後、東京も横浜も「万事休す」ではなかったのである。いまはまだ惨状広がる東日本大震災も同じであってほしい。そしてその復興には、こうした女生徒たちと同じ若い世代を原動力にしてほしいとも思う。なぜなら彼らこそ10年、20年後の日本を担うからだ。

 その意味で現下の復興構想などに若い力の積極的評価が見られないのは、いささか残念だ。肉親を失ったり、仕事や学業の機会を奪われたりして過酷な人生を歩まねばならぬ若者も少なくないだろう。それでもと、あえて言いたい。若さにはそれを克服する力がきっと備わっているだろうと。

 《木の葉の落つるも、先(ま)づ落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌(きざ)しつはるに堪へずして落つるなり》(『徒然草』百五十五段から)

 葉は古くなるから落ちるのではない。新しい芽の勢いによって葉は取って代わられるのだという。

 東日本大震災の後、「災後」の表現が散見されたのは示唆的である。もはや「戦後」ではない。まったく新しい「災後」日本を。そしてその主役は若い世代にこそ与えたい。

【引用終わり】

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 この「戦後」が終わり、「災後」の復興は「若い力」が担う。
 私自身若いとは言えないが、4月せわしく動き始めたのは、ぼんやりしていられないし、やるべきことをしっかりやってこそ被災地へのなにがしかのエールとなる。
 まあ、こんな言い方は後付けにしかすぎないが、要は切羽詰まってきた気分にあるということだ。自分自身の担うべき仕事をやり遂げることである。
 第51回手をつなぐ育成会東北ブロック大会・(併催)第31回山形県知的しょうがい者福祉大会(10月15日〜16日)の開催である。その準備が予定よりかなり遅れている。
 特に、本人部会をどうしていくかが頭痛い。昨年度ずっと計画してきた内容から大幅変更して開催することにしたからである。
 本人のための防災会議と称して実施する方向である。
 そして、本人による本人のための防災ハンドブックを作成することももくろんでいる。
 そのため、やまがた社会貢献基金の助成を申請した。
 5月にそのためのプレゼンがひかえている。それを突破しないと、会議そのものの開催も危うい。幸い、山形市手をつなぐ育成会と山形県知的障害者福祉協会から協力してもらう。本人たちが災害の備えをいかにすべきかについて、真剣に話し合う場は今をおいて他にない。
 前進した内容にすれば、きっと「明けない夜はない」となるのである。
 (ケー)




 被災地に共感する人たちが多い。
 今回の熊本地震でも、銀座にある熊本県のアンテナショップには、多くの買い物客が訪れている。
 少しでも被災地を応援しようとする気持ちの表れである。
 これだけでも被災者を勇気づけることになるはずだ。

 (ケー)
 東日本大震災から5年がたった。
 発災当初の山形市内を中心としたさまざまな状況について、本ブログに記述した今までの内容を再録している。

 大震災の被災地にとってどこから手をつければいいかわからない。
 そうした状況の中で、がれき一個から片付けを始める。
 体は疲労感に包まれ、心も折れている。
 そうした今の状況から脱する方法は、まずがれき一個を片づけることが大事だ。
 そこからしか、なんにも始まらない。
 以下は、そうした記述に関する引用である。



♯地震発生から42日目=がれき一個片づける
 April 21, 2011 08:25

 平成23年(2011年)3月11日(金)14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)から42日目(4月21日、木曜日)。 また、大震災発生から42日目の新しい朝を迎えた。

 昨日の朝はことのほか寒かった。山形県内でも雪が降ったところがある。なんか、蔵王の峰々や月山もとけかかった雪が止まった感じがする。
 被災地の宮古市でも雪だったらしい。
 msn.産経ニュース、被災地の皆さんへの欄に哲学者の内田樹氏が寄稿している。次に引用する。
 
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【引用始め】
 
 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110420/dst11042007350007-n1.htm
 神戸女学院大名誉教授・内田樹さん
 2011.4.20 07:33
 「新たな故郷」つくるシナリオを

 復興は目の前のがれきを片付けることからしか始まらない。
 でも、そこから始まる。
 まず石を一つ拾うことから始め、拾ったら拾った分だけ復興に向かう。
 何度も津波に遭い、その都度立ち上がってきた三陸のみなさんは分かっていると思う。

 被災地の方々にとって、高すぎる理想や遠い目標を掲げないことが大切。
 すぐに手が届くところに、ささやかな目標を設定し、それをクリアしたらお互いに健闘をたたえ合い、また次の目標を立てる。
 そういう小さな積み上げが長期にわたる復興には必要だ。

 今回は津波と原発の「複合災害」。
 自然災害は有史以来繰り返され、どう対処してよいか、私たちは本能的に知っている。
 復興のつち音が聞こえてくるのも遠くはないと思う。
 だが原発は人災で、対処法を歴史的経験として蓄積していない。

 福島や北関東の一部では、そこに「住む」という選択肢さえ失われる可能性がある。
 今のままでは農業や酪農はダメージが大きく、人口も減り、地価も下がり、いきおい地場産業も衰退するだろう。
 このエリアに大きな空白が生じる事態も考慮しなければならない。

 国の原子力行政の結果、土地を離れ、職を失うことを強いられた人々を救済するため、政府は「新たな故郷」をつくるくらいのスケールの大きな政策を検討すべきだろう。
 住民ひとりひとりの個人的な決断に委ねて、これ以上の苦しみを与えるべきではない。
 彼らへの全国民的な支援体制の設計が急務であると思う。

【プロフィル】内田樹
 うちだ・たつる 神戸女学院大名誉教授。昭和25年生まれ。
 阪神大震災で被災した経験を持つ。

【引用終わり】

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 がれきを一個片づけることから復興が始まる。復興はそこからしか始まらない。
 一個の石を片づけることが、「明けない夜はない」の実現を図る第一歩である。一個ずつ片づけることを地道に継続してゆく。遠い道のりのように見えるが、それが着実な方法であり、ある種一番の近道なのだ。
 (ケー)



 熊本地震は、4月14日の発災から3週間が過ぎた。
 余震も千回をはるかに超えている。
 不安は今もって続く。
 被災地ではそれにもかかわらず復興に向けた取組を始めている。
 新幹線が開通している。
 少しずつ光が見え始めている。
 そこに希望を見出して前に進むのだ。

 (ケー)
 東日本大震災から5年がたった。
 発災当初の山形市内を中心としたさまざまな状況について、本ブログに記述した今までの内容を再録している。

 大震災後の復興に向けた取組は、思うようにいかない。
 努力してもその努力が報われない。
 試行錯誤の連続である。
 心折れる状況が続く。
 それでもやり続ける。それが解決の道だから。
 以下、そのへんの事情が記されている。




♯地震発生から41日目=工程表を信じる
 
 April 20, 2011 08:49
 平成23年(2011年)3月11日(金)14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)から41日目(4月20日、水曜日)。 また、大震災発生から41日目の新しい朝を迎えた。

 大震災によって、今までの自信や余裕や、今後の計画や予定がずたずたにされた。
 普通の生活がいつまでも続くと思い込んでいた。今となっては遅いがやはり思い込みにすぎなかった。平穏無事でたいした波風の吹かない生活に満足していた。とても心地の良い生活であった。決して、大事になるような事故や災害などの災厄に巻き込まれるはずがないと、日々生活を続けてきた。
 マスコミで報道されるような犯罪・火災なんて自分の日常には起こるはずがないし、まして海外でのクーデターや暴動など日本には無縁と思っていた。
 しかし、身近で1000年に1度の天変地異が起こった。
 2万人もの人が亡くなり、街がいっぺんになくなり、家ごと根こそぎなくなり、仕事もなくなり、放射能汚染といった最悪の事態が起きた。残ったのは無残ながれきの山。
 1カ月以上経っても、解決の道遠しの感がある。
 でも、災害現場では悠長なことを言ってもしょうがない。解決に向けた道筋づくりに苦労している。
 原発事故解決の工程について、毎日jpの余録では次のように述べる。

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【引用始め】

http://mainichi.jp/select/opinion/yoroku/

余録:「工程」の今後

 歩くという単純な行動も水の中では思い通りにならない。戦場での行動を重い液体の中での運動にたとえたのは、先日も小欄で引いたクラウゼビッツの「戦争論」だ。敵情が分からない戦場では思わぬ事態が次々に予定された行動を阻む。
▲あらかじめ考え抜いた必勝の戦術も、不確実性が液体のように満ちた戦場では必ず齟齬(そご)をきたし、もくろみは狂ってしまう。似た状況は戦争だけに限らない。およそ平時には予想できなかった深刻な危機にあって、物事は人間の思い通りに運ばないのが世の常である。
▲目標は遠いが、はっきりしている。そこに至るおおまかな道筋はようやく描かれた。だが、まとわりつく不確実性はその歩みを妨げようとする……福島第1原発事故の収束に向けて示された原子炉安定化の工程表のことだ。
▲東京電力はきのう2号機から出た高濃度の汚染水を貯蔵施設に送る作業を始めた。まずは一歩である。だが、その前日には4号機の建屋地下の水深20センチと見られた汚染水の深さが実は5メートルだったことが判明した。前に踏み出す足にまとわりつく予想外の展開である。
▲原子炉安定までの「6〜9カ月」は避難を強いられている住民には気の遠くなるほど長かろう。だが専門家の多くはむしろ工程表の見通しは甘いともいう。一刻も早い収束は至上命令だが、不測の事態続発も覚悟せねばならぬ人類未踏の原発災害収拾の道のりである。
▲ここはまとわりつく不確実性を封じる周到な情報収集と、思わぬ変事への機敏な対応が求められる現場だ。また社会的な不確実性を封じる方策も忘れてはならない。国民への徹底した情報公開である。

毎日新聞 2011年4月20日 0時13分

【引用終わり】

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 原発事故の現場で働く人たちの努力を信じよう。この工程実現のために、必死の作業を続けている。不確実性の中での命がけの危険な作業である。私たちに代わってやっている。自分たちが責任を持って果たすべき役割として、義務として原子炉安定化に向けた工程表を一つ一つクリアする至上命令を達成するために。「明けない夜はない」ことを信じて。
 (ケー) 




 福島第一原子力発電所の津波災害がもたらした影響は大きかった。
 原発政策を大きく変えた。日本全体の原発が全て稼働ストップした。
 原発再稼働に向けた国民世論も二分している。
 今後どうなるのか予測がつかない。 

 (ケー)
 東日本大震災から5年がたった。
 発災当初の山形市内を中心としたさまざまな状況について、本ブログに記述した今までの内容を再録している。

 大震災で被災した人たちは、みなそれぞれ困難な状況が異なる。
 一律に対応しても何の解決にもならない。
 それぞれに寄り添った支援がきめ細やかに実施されることが望ましい。
 そうはいってもこの混乱の中で簡単にはいかない。
 こうした問題に直面しながらより良い支援に近づく努力である。
 以下に、参考になる事情が記されている。




♯地震発生から40日目=一人一人で異なる困難
 
 April 19 2011 06:20
 平成23年(2011年)3月11日(金)14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)から40日目(4月19日、火曜日)。 また、大震災発生から40日目の新しい朝を迎えた。

 地震で家が壊れ、津波で家族が亡くなり、会社が根こそぎ津波で持っていかれ、原発事故で避難を強いられている。
 被災者一人一人が今もってあの災害の中で、ぼう然と立ち尽くさざるを得ない状況にある。阪神淡路大震災の時、ボランティア活動に取り組んだ人の手記を次に引用する。

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【引用始め】
http://www.yuki-enishi.com/challenger-d/challenger-d68.pdf

訪問おたすけ隊・活動マニュアル
「応援する市民の会」のめざす活動
1995 年1月27日版

数字に還元できない精神的な痛み

 大震災から10日を経た現在も、被災地の人々を襲った災害の全容は把握されていません。 というのも、まず、確かに行方不明者の数は減ってきましたが、被災された方々の生活困難とはそうした数字で示しきれるものではないからです。
 災害の全容には、一人ひとりの方が被っている様々な生活困難や心の傷も含むものです。家が全壊したということは、建設費○千万円の建物が失われただけでなく、使い込んだ家具を失い、かけがえのない思い出のこもった記念品を失ったということでもあります。命の喪失にいたっては、はかりようもない重さを持ちます。

一人ひとりで異なる悩み

 しかも、そうした辛さ、苦しさは、一人ひとり違います。「西宮市で○○が不足している」と聞いて、その物品を市役所に送れば問題が解決すると考えるのは、実は間違いです。確かに災害発生当初は、すべての人に共通に必要な水や主食が不足しました。このような段階の問題は、必需物資を届けることで解決できました。
 しかし今は、ある人は倒壊した家の中から先祖のご位牌を探し出すことが一番の問題であり、また別の方は家の片付けをしようにも幼い我が子の世話に追われてしまうことが一番の悩みなのです。ある人は借家の権利がどう守られるかを知りたいのですが、別の人は受験を控えた娘のためにホームステイを申し出てくれる人をこそ、まず探したいのです。
 生活用品の不足といっても、ある人は持病の薬が、またある人は毎日遊んでいたファミコンが、またある人にとってはCDプレーヤーがないことが、一番の欠乏感をもたらします。

【引用終わり】

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 1カ月以上経過した今の状況は、被災者も、救援者も疲労が極に達している。先の見えないトンネルに入り込んでいる感じである。あのがれきの山に囲まれて滅入らない人はいない。がれきを完全に片づけるのに5年はかかるといった試算まで出ている。原発事故の収束に向けた行程表も発表された。物事の解決は一挙にというわけにはいかない。それは誰も分かっている。一つ一つみんなで力合わせて、段階的に継続的に解決に向けた取り組みをしていけば、「明けない夜はない」。
 (ケー)



 阪神淡路大震災、新潟中越地震、東日本大震災、そして今回の熊本地震。
 日本中で起こる地震、そして地滑り、川の氾濫、火山の爆発等、災害に見舞われる。
 その時々、その地域において、住民たちの苦労は多岐にわたる。
 障がい者は特に大変。
 苦労に見合った支援が適切になされる必要があるのだ。 

 (ケー)
 東日本大震災から5年がたった。
 発災当初の山形市内を中心としたさまざまな状況について、本ブログに記述した今までの内容を再録している。

 以下は、東日本大震災の発災から39日目に被災地を見た状況を記している。
 宮城県塩釜市、多賀城市、仙台新港の悲惨さが今も思い浮かぶ。
 地震と津波によってすさまじい破壊にさらされた。
 想像だにしなかったことだった。




♯地震発生から39日目=支柱を残すのみ
 
 April 18 2011 06:09
 平成23年(2011年)3月11日(金)14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)から39日目(4月18日、月曜日)。 また、大震災発生から39日目の新しい朝を迎えた。

根っこごとなぎ倒された木々

 昨日(4月17日、日曜日)の天気は最高。宮城県塩釜市の親戚に大震災以来初めて出かけることになった。
 今まで行くに行けなかった。遠慮していた。向こうでは、是非来てみてと言ってくれたので出かけた。なんか行くのに気が引けていたというのが正直な気持ちだった。
 親戚の家が被害を受けることはなかった。しかし、親戚の知り合いにも多くの人たちがたいへんな状況になっていることは聞いていた。

 塩釜へ向けて、山形中央インターから高速にのった。
 仙台東部道路の周囲は全く想像を絶する。ここらへんは、テレビでも空中撮影の画像で見ていた。高速道路を境にして、海側の方が津波にもろにやられている。
 松の木といった木々が、なぎ倒されて田んぼだった、いたるところに数え切れないほどある。
 どこから流されてきたのだろう。車も数え切れないほどあちこちに放置されまま。土埃をかぶって、田んぼの真ん中に、ひっくり返ったり、ひしゃげているものも多い。道路自体もなんだか波打っている感じだ。特に、橋のつなぎめに「がたっ」となった段差が目立った。道路の修理跡したところも多い。
 建物も窓ガラスがなくなっていたりするのが遠くに見える。
 ごみ、がれきの山が一面に広がっている。

 東部道路の海側の反対の方には、なぎ倒された木々はさすがにないが、津波がきただろうといった感じのがれきがところどころに残っている。
 海側を眺めると、ずっと遠くに松林らしきものがまばらに残っている。
 かつての伊達藩で400年前、防潮林として植樹してきたものが大津波で完璧に破られてしまった。なんとも、例えようのない光景が厳然とあった。

塩釜の親戚の状況
 
 塩釜の親戚まで行く途中にも、大きなスーパーの建物の壊れ方がひどい。ひしゃげた金属の棒状のものがいくつもぶら下がっている。営業はしてない。
 
 親戚の家は塩釜でも高台にあるので見た目にはどこも何ともない感じである。
 しかし、玄関口のブロック塀の一部が壊れかけている。また、地面とのつなぎ目は大きくずれて段差ができてしまっている。
 家の中でも、トイレの角角はひびが入って、明らかにずれている。また、居間の壁にも外からは目立たないが壁紙にしわができていて多分ひびだなという感じ。
 家の地震での影響調べが来たという。石川県から派遣された調査員だったという。

 また、趣味で創作している大ぶりの粘土人形は、強い揺れでもほとんど倒れず、ずれた程度でなんとかもちちこたえたとのこと。
 でも、リフォームして自慢のガラスケースの貴重なガラス器がいくつも割れてしまった。また、外国旅行のみやげとしてもらったオーデコロンが飛び出して、床に落ちてしまって床の色が変わった。歩くたびにべたべたと粘っこくて気持ち悪かったという。
 親戚の人は地震の時は、ただテレビをおさえているだけだった。がちゃんがちゃんとガラス器が割れる音が気がかりだった。
 地震の揺れがおさまって、自然に隣近所の人たちが外に出て集まっていた。
 それから、町中に警報のサイレンが鳴り渡った。
 「2メートルの津波が来ます。4メートルの津波が来ます。6メートルの津波が来ます。」次々と変わってきたというのだ。もともと高台にいるので、ここまで津波は来ることないと思った。

おじさんも家も津波でやられた
  
 そんな地震当時の話を聞いて、親戚の車で被災現場を見に出かけた。
 塩釜でも店舗の多い海辺の方は、まだまだ片付いてない。到るところにゴミ・がれき・放置されたままの車がある。信号機も止まっているものの方が多い。
 
 海岸の方に向かう。自衛隊員が交通整理に余念がない。
 家が傾き、窓ガラスもなくなっている。車がひしゃげている。船が沖に打ち上がってる。コンテナが海岸に何個も流れ着いている。仙台新港から流れてきたらしい。
 ちょっと高台に行くと、なんの被害のないところもある。天と地の差がある。
 
 隣町のおじさんのお宅にもよった。もともと誰も住んでいない家だった。妻に先立たれたおじさんは、神奈川県にいる娘のところにいる。本人は、難を逃れることができた。
 しかし、家はひどくやられていた。玄関の戸は完全にはずれ、ガラスが割れていた。家の中は泥だらけ。全然片付いていない。隣の人の話では、時々親戚の人が来ているみたいだという。周囲の家もみなこの津波の被害にあっている。
 道路脇には、ごみが積み上げられたままである。道路の半分を占領している。

支柱を残すのみ
 
 産業道路沿いのレストラン、車のディーラー、いろいろな店舗がめちゃくちゃな状況。まだまだ片付いていない。道路はなんとか走れるようにはなっている。流された車も路肩や、駐車場にごろごろと泥だらけで転がっている。
 
 仙台新港に行った。
 甥っ子の会社は、支柱や屋根が残っているのみ。ゴミが支柱にいっぱいひっかかっている。これほどの状況であれば、津波に追いかけられたというのもうなずける。
 大きなビール工場も近くにあって、ビールコンテナが路肩にごろごろしている。あらゆる工場がただ支柱を残しているだけで、ドロとごみの山で囲まれている。廃墟そのもの。
 
 1カ月以上経過している。それがまだこうしたまま。いつになったら、片付くのか。
 工場、店舗、一般の家、道路だってきれいにするまで、膨大な費用と、重機と、人の手と、日数をかけないとだめだろう。

 こんな光景を自分が目撃するとは思っても見なかった。
 きっと、65年前の日本の多くの町もこうなっていたに違いない。自然災害とはいえ、その再現だ。
 本当の出直しになった。   

 それでも、「明けない夜はない」。
 (ケー)




 被災した甥っ子は仙台を離れ、千葉で新しい仕事に就いた。
 家がめちゃくちゃになった叔父は、娘が住む神奈川で亡くなった。大震災から2年たってからである。
 被災者の人生は大きく変化した。
 もし、大震災がなかったらまた別な人生だったはずだ。 

 (ケー)

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