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 今まで浅井浩氏の論稿を62回にわたって、引用(http://www.asai-hiroshi.jp/newpage4.html)
してきた。
 障がいのある人に対するバランスのとれた幅広い考え方を展開するものだった。
 新たな障害者福祉制度、社会福祉法人、特別支援教育等に関して、原点をおさえてあった。
 障がい者問題を考えるものにとって示唆に富む内容と言える。
 浅井浩氏については、今後の発展を期待し、引用もちょっと長くなりすぎたので、今回で終わりにする。
 また、再び御厄介になるかもしれないので、その節はよろしく。
 浅井浩氏に大変お世話になったことに心より感謝する。

 さて、次は何を話題にしていくか。
 どんな問題を考えるべきか。
 私としては、育成会の組織を自立させるにはどうすればいいか。
 それが一番の関心事である。
 会員が減少し、組織の活動も不十分になっている。
 事務局が非力だからと言われれば、返す言葉もない。
 会員相互の交流、自主的な支部活動といったことを盛んにしたい。
 しかし、育成会に対する期待が以前から比べれば圧倒的に低くなっている。
 それは会員減少となって如実に表れている。
 会員が減ればその分収入が減る。
 収入が減れば、活動に影響する。
 こうした悪循環に陥っている。
 これをどうすれば打破できるか。
 社会福祉法人から一般社団法人に転換してから会員の減少は著しい。
 組織上の転換といったことが大きな原因でもない。
 それよりも、会員みんなが納得する活動が見えにくいことだろう。
 知的障がいのある子をかかえた家族にとって、育成会はどんな働きをしてきたか。
 今、どんな働きをしているか。
 さらに将来どんな働きをしてくれるのか。
 そうしたことがうまく情報提供することができていない。

 今、山形県手をつなぐ育成会が力を入れているのが、ホームページやブログを使った情報提供である。
 事務局としては、きめ細かな更新を継続している。
 それがごく一部にしか届いてない。
 高齢者にとっては縁遠い存在である。
 今後、各会員が情報環境を整備するのはちょっと無理かなと思ってしまう。  
 ただ、FB、ツイッターなどの手立ても導入することを検討していけば、広がりの可能性はあるかもしれない。

 もう一つ、活性化事業と称して、県内各地において年間7回の研修会を開催している。
 障害基礎年金、人権擁護、きょうだいの問題、事業所見学をテーマとしたものである。
 昨年は、総計200名以上の参加があった。
 今年はそれ以上の参加を期待している。

 こうしたことはあくまでも県事務局が主催するものである。
 各地の育成会が自主的に開催する活動がもっと見えるようにしたい。
 定期的な茶話会の実施等も地道に開催しているところもあるのだが。

 障がいのある子が自立することを求めている。
 それならば、育成会も自立している活動を継続していく必要がある。

(ケー)
 特別支援教育における自立とは何か。
 それについて、浅井浩氏は自立に対する追求が不十分とする論を以下で述べている。
 浅井氏の引用は第62回目となる。



【引用はじめ】

http://www.asai-hiroshi.jp/newpage4.html
浅 井  浩

教育を受ける権利の保障  2013.4.12/更新 2014.1.10/2014.11.7

 「特別支援教育」はなぜ必要なのか

  「~、障害による学習上又は生活上の困難を克服し自立を図るために必要な知識技能を授けることを目的とする」 というのは、単なる建て前論的な作文であるならばそれでもよいかもしれません。
 しかし、「~学習上又は生活上の困難を克服して自立を図る~」という、その自立とはどのような自立を意味するのか、それが実はきわめて重要なことなのですが、なぜかその点の具体的な考え方がなおざりにされたまま現在に至っているといっても過言ではありません。

 特別支援教育は、教育を受ける権利を有する児童や生徒のためにあるはずです。
 誰のための、何のための教育か、特別支援教育と称する意味は何か、ということを改めて考え直してみる必要があるように思います。

 戦後日本の教育施策として障害児の学校教育が義務制になったのはよいと思います。
 しかし学校を卒業後の就労や日々の生活、さらにその老後に至る 「親亡き後」 の暮らしを概観すれば、その道筋は依然として整備されているとはいえません。

 障害をどのように受容し、学校卒業後の生活をどのように見据え、そのための教育をどのように考えるかということが大切なわけですが、どのように暮らす(暮らせる)かの道筋が見えてこそ具体的な教育の目標や教育の内容や方法が考えられることだと思います。
 
 1979(昭和54)年に養護学校の義務制が実施されてから現在に至る教育の内容や方法論をめぐる諸問題及び学校卒業後の諸問題を直視し、今一度、障害児(者)の教育や福祉について原点に立ち返って考え直してみる必要があると思います。

【引用おわり】



 以上のように、障がいのある子に対して一生を見すえた自立のあり方が、明確でないという主張である。
 学校現場における教育と、卒業後の生活といった福祉が一貫していない現実を指摘している。
 学校は学校、福祉は福祉といった連携がとられてない状況がある。
 学校と福祉が協力し、連携し合う制度が必要である。
 例えば、研修会などに相互交流があってもいい。互いにそうした機会に案内を出して出席し合う必要がある。そして、積極的な意見交換があるべきだ。
  
(ケー)
 学校教育法に定められている「準ずる教育」に対する考え方について、浅井浩氏は以下に問題提起している。
 浅井氏の引用は第61回目となる。



【引用はじめ】

http://www.asai-hiroshi.jp/newpage4.html
浅 井  浩

教育を受ける権利の保障  2013.4.12/更新 2014.1.10/2014.11.7

学校教育法でいう 「準ずる教育」 とは

 学校教育法の第72条に特別支援学校の目的として、「特別支援学校は、視覚障害者、聴覚障害者、知的障害者、肢体不自由者又は病弱者(身体虚弱者を含む。以下同じ。)に対して、幼稚園、小学校、中学校又は高等学校に準ずる教育を施すとともに、障害による学習上又は生活上の困難を克服し自立を図るために必要な知識技能を授けることを目的とする。」とあります。

 この学校教育法でいう 「幼稚園、小学校、中学校又は高等学校に準ずる教育を施す」 ということをどのように考えるかということも重要な問題だと思います。

 準ずる教育という言い方は、障害のない子どもの教育になぞらえるということであり、端的にいえば、同じようにするとか似せるということだと思います。

 同じようにするとか似せるということで何も問題がないのであれば、わざわざ 「準ずる」 などと紛らわしい言い回しをせずに最初から 「同じ教育」 といえばよいはずです。 
 しかしいわゆる一般的な学校と同じでは問題があるからこそ特別な支援教育を行うという意味で 「特別支援教育」 「特別支援学校」 というのだと思います。

 特別な教育支援を行うというのであれば、その学校での具体的な教育の内容や方法は、一般的な学校に「準ずる教育」ではなく、障害の状態等に応じた 「適切な教育」 を行うということでなければならないと思います。

 「準ずる教育」 から 「適切な教育」 に改めることにより、特別支援学校での具体的な教育的支援の方向性やそのための教育の内容や方法が考えやすくなり、工夫もしやすくなるはずです。

 特別支援教育が必要だとするならば、その前提として重要なことは何よりもまずその対象となる児童生徒の実態の把握と、そのためにどのような教育をどのように行うかということを考えなければなりません。
 そうでなければ特別支援と称する教育の内容や方法を具体的に追求していくことにはならないからです。
 当然そうしたことで現在に至っているのかもしれませんが、「準ずる教育」 へのこだわりはなぜか根強いようです。

 障害のない児童や生徒を対象にしたいわゆる普通教育と同じような内容や方法では無理があるわけですが、そうしたことの理解認識が正しくなされないままに、未消化のままの人権論や無差別平等論、ノーマライゼーションやインクルージョンなどの論理に翻弄されてしまっているようなところがあるのではないでしょうか。

 準ずる教育による混乱とそれによる弊害を招かないためにも、また教育的意義や教育的効果の点からも、教育を受ける権利に対する教育を受けさせる義務という点からも 「準ずる教育」 は 「適切な教育」 に改めるべきではないかと考えます。

【引用おわり】



 以上、「準ずる教育」という用語は、形式主義的な無差別平等論に傾きがちで誤解を生んでいると指摘している。
 そのまま読むとそのようにもとらえてしまう。
 しかし、学校教育法第72条、特別支援学校の目的は、次のようになっている。
 「特別支援学校は、視覚障害者、聴覚障害者、知的障害者、肢体不自由者又は病弱者(身体虚弱者を含む。以下同じ。)に対して、幼稚園、小学校、中学校又は高等学校に準ずる教育を施すとともに、障害による学習上又は生活上の困難を克服し自立を図るために必要な知識技能を授けることを目的とする。」
 前段の「準ずる教育」と、後段の「障害の克服と自立を図るために必要な知識技能を授けること」の2段構えになっている。
 多様な障がいに対する多様な教育を前提しているのである。
 障がい児一人ひとりに合った教育の場や内容・方法の必要性が、その目的に盛り込まれていると解釈すべきである。
  
(ケー)
 障がいのある子の教育はいかなるものか。
 日本国憲法及び教育基本法に定める内容より、以下ではひもといている。
 浅井浩氏による解説である。 
 浅井氏の引用は第60回目となる。



【引用はじめ】

http://www.asai-hiroshi.jp/newpage4.html
浅 井  浩

教育を受ける権利の保障  2013.4.12/更新 2014.1.10/2014.11.7

教育の機会均等について

 日本国憲法の第26条には、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」 「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。」とあります。

 教育基本法の第4条には、「すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、~」 「国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。」と定めています。

 憲法の、「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける」 「普通教育を受けさせる義務」 ということと、教育基本法の、「その障害の状態に応じ」 ということは、教育を受ける権利とその保障についての問題を考える上できわめて重要なことだと思います。

  「その能力に応じ」というのは、能力的個人差や能力的発達の程度や状態に応じるということですから、その場合の 「ひとしく」 というのは、教育の内容や方法が教育を受ける人すべてに、まったく同じであればよいということではなく、また同じことを強要するものでもないはずです。つまり 「ひとしく」 というのは、「一律に」 ということとは違うということです。

 また「普通教育」とは、どのような教育内容をいうのか漠然としていますが、それは一応、人としてあるいは社会の構成員として生活していくうえで必要な教育だとか、次代を担うために必要な教育だと解釈すれば、それは文化レベルや生活習慣あるいはその時代状況など社会的環境条件との関連で相対的に考えられるものだということになります。

 しかもその教育の内容や方法は、教育を受ける権利を有する側によって考えられるのではなく、教育を受けさせる義務を負う側の価値観や判断基準に基づいて考えられるものだということになります。
 まさに学校教育における教育内容や方法はそういうことになります。

 その点でどのような教育の内容や方法を考えるかということがきわめて重要なことになるわけですが、ひとしく教育を受けさせるということと、一律的・画一的な教育を受けさせるということが無差別平等論の下に混同されている現状があると思います。

 教育の分野では、障害児の教育を地域の普通の学校や学級に統合して行うインテグレーション(統合教育)を発展させた考え方であるインクルージョンがノーマライゼーションと並ぶ新たな理念となっていますが、教育を受ける権利ということからすれば、多様な教育の内容や方法があり、多様な教育の場あってよいはずです。
 それが本来の教育の機会均等ということではないでしょうか。

【引用おわり】



 障がいのある子に対する教育のあり方は、インクルーシブ教育だからといって、単に障がいのない子と一緒にすればいいというわけでない。
 障がいのある子一人ひとりに対して、適切な教育の内容・方法・場でなければならない。
 それが、憲法及び基本法に定めるものである。
 障がいのある子が生き生きと教育されていることを保障することこそ求められている。
  
(ケー)
 ノーマライゼーションの理念が教育に導入されて、インテグレーション(統合教育)という言葉がかつてよく使われた。
 最近は、それをさらに発展させる意味を込めたインクルーシブ教育(包み込む教育)が使われるようになった。
 障がいのある子は、かつて障がいの種類や程度によって場が特定されていた。
 しかし、特殊教育から特別支援教育といった制度改革により、障がいのある子の概念が広がり一人ひとりに即した教育がより強調されるようになってきている。
 特別支援教育は場から機能への転換と言われ、障がいのある子に対する柔軟な教育が求められる。

 以下は、浅井浩氏のノーマライゼーション、インテグレ―ション、インクルージョンについての解説である。 
 浅井氏の引用は第59回目となる。



【引用はじめ】

http://www.asai-hiroshi.jp/newpage4.html
浅 井  浩

教育を受ける権利の保障  2013.4.12/更新 2014.1.10/2014.11.7

ノーマライゼーションとインクルーシブ教育

 ノーマライゼーション理念によるところの 「共に学ぶ」 という考え方の方向性はよいとしても、それは障害児(者)を対象とした専門的な教育の取り組みを否定するものではないはずです。

 しかしノーマライゼーションの理念が、すべての子どもを普通の学校又は普通の学級へと主張し、障害児を対象にした養護学校や障害児学級そのものを否定するような運動に結びついてきた経緯があります。 

 教育の分野では障害児の教育を、いわゆる地域の普通の学校や学級に統合して行うというインテグレーション(統合教育)をさらに発展させた考え方であるインクルージョンがノーマライゼーションと並ぶ新たな理念となっています。

 インクルージョンとは、「包み込む」という意味で、それは障害をもつ人を含め、さまざまな違いを認め合い、障害をもつ人ももたない人も、共に学ぶ社会を目指すということであり、教育の分野におけるその具現化がインクルーシブ教育です。

 それはすべての子どもが地域社会の学校教育の場に包み込まれ、それぞれに必要な教育が受けられるようにすることを意味しますが、教育を受ける権利で大切なことは、どのような教育をどのような方法で、どのような教育的環境条件の下で受けることができるかどうかということです。

  「一人ひとりを大切にした教育」 ということがいわれていますが、それは教育を受ける権利に対する当然のことであり、そこで重要なことは、一人ひとりに対して具体的にどのように対応していくかということです。

【引用おわり】



 学校現場は、理念だけで変われるものでない。
 具体的な教育技術や方法について日々研鑽があってはじめて、理念も実現する。
 インクルーシブ教育の実現に向けて、各学校における実力向上に向けた取組みに期待したい。
  
(ケー)

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